渋谷のカリフォルニアスケートパークがオープンした('78)

 Shibuya tokyu California Skate-Park

 渋谷の東急文化会館には映画館、プラネタリウムがあるの(あったの)は有名だが、ココには78 年に「カリフォルニアスケートパーク」というスケートボードパークができた。スカイブルーに塗装されたハーフパイプとそれに続くボウルはコーピングこそなかったが、独特のRの立ち上がりでサイコーの仕上がりだったことを覚えている。ここには後のスケートボード、スノーボード界に影響を与えた数々のプロが集まっていた。アキ秋山、カツ秋山、デビルマン西岡、ミッチェル、ビンス、藤田、大輔(中村)、松島(ローズ)らである。

初期はハーフパイプ、ランページに併設されたフラット&バート(ここのバートはRがきつく、ややオーバーハングがかかったやっかいな代物だった)のスペースでロックウォーク、スライド、スピンなどのフリースタイルを練習する人々が多かったが、ある日、見慣れない金髪のオヤジ(このころはオヤジだと思った・・笑い)がくるくる回っていた。そのオヤジこそスケートボード界の黎明期から活躍していたラス・ハウエル(Russ Howell:1949〜)だった。彼は体操の先生だったっけな〜。スピンの世界記録は1977年に163(!)回転(なんでも坂道の傾斜を使ったらしいなど諸説有り)だった。現在でも画像を見ることが出来るホームページがある!筋肉質のいかにも体操をしていたオッさん風だったが・・・。彼がスピン用に開発したウィールをもってパークに来ていたのである。練習をしっかりと見せてもらって「サインプリーズ」のひと言。ゲットしましたあ。これです。今でもこのバッグは使っている。ほつれが出てきたなあ・・。

 さて、興味はめっぽうハーフパイプだった。奥のボウルでワンメイクだが、バックサイドのコースターからハーフパイプに戻ってきてグラインダーするぐらい。あとはフロントサイドエア。最初はこんなもん。

15cmぐらいだなあ。まあ、板をグラブして降りることの方が必死だった。そのうちこれぐらいに・・・。45cmぐらいか?とにかく飛んでいる瞬間が好きだった。当時のT.A,Shogo Kuboとかがアイドルだった。そう、Shogo Kuboも来日したっけなあ。ボードにサインをもらった。彼の飛び方は普通じゃなかった。それにシャイな感じで、一緒に飛んでいたけど、GoooD!というぐらいでニコニコみてくれていた。めっぽう好きになった。

ランプはアクリル製のもので、なかなか難しかった。このカットバックは身体が浮いちゃって失敗してるかも。精一杯。Shogoなんて楽勝でフロントサイドのグラインダーをかけてた。

 全然だあ。そうそう、この頃はナイキのハイカットとレクターのグローブを買ってたんだなあ。とにかくビンボーだった。高校の部活を終えてから行くこともあったけど、平日の夕方が多かったなあ。フラットのオーバーハングでエアーを飛んでいた時の写真がある。ここのオーバーハングで飛べるのはオレぐらいだった。ここは降りてからフラットまで凄く長くて、最後に急なRをクリアしないと降りれなかった。パークの社長が撮って、お店に飾ってくれた写真。

yellowのリーダーSさんも滑りに来た。フライアウエイのヘルメットはこの頃が最初ではないかな?プロテクターはまだカップのついていないタイプだ。レクターの皮グローブを使っていたが、手のひらに6mmぐらいのパットが入っていたそれは指先からどんどんほつれ、皮の独特のにおいがきつかった。

渋谷のパーク以外にも平和島(プールのはしりではないか?)スケートパーク、瀬田パーク(ここもいいところだった。合宿で行きました)、松戸ボウル(コーピングが5cmぐらいの代物。タイルまでは楽勝だが、コーピング越えが不可能)などいろいろなパークができていた。時代だったなあ・・。松本栄吉さんも訪れて、夜遅くまで滑っていた。唯一残っている写真。フォームをコンパクトにしてすぐに上まで上っていた。キレが全然違った。

Rock'n Rollは誰がはじめた?

渋谷で練習をしていた時(まだローズ、藤田たちと一緒だった。篠くんはその後登場)カツくんがアメリカ修業から帰ってきた・・。この時からニッポンのスケートボードが変わったのかな?と思う出来事があった。それがRock'n Rollだった。New Schoolの人たちにはフェイキーロックが多く行われているが、当時は、フェイキーはランプなどでは加速のための方法で、F/Bカットバック、ロックウォーク、エアボーン(笑い:当時はエアーとは言わず・・)ぐらいしか技がなかったのだ。カツくんが見せた切れのあるRock'n Rollは僕らを虜にしたなあ。きれいにノーズをけり込んだところからの素早い返しで、次々にロックを決めるカツくんがかっこよかった。皆ですぐにハーフパイプ手前側で練習。だんだんとできるようになって、ハーフパイプの奥でチャレンジするようになった。僕も比較的早くできるようになっていたから、練習のつもりで・・・で、後頭部強打!入院となりました。ヘルメット義務化されていて命拾い。脳波を測ったら「小学生並みに落ち着きがない」と診断され、腹が立った(笑い)。

Rose松島がんばる?きっかけは〜っ!コンペ。

 さて、この頃に前後して大会なども開催されていた。渋谷パルコの脇だっけ?駐車場があってそこでフリースタイルの大会があったりした。フリースタイルではキックフリップ、スピン、ロックウォーク、エアウォーク、スライド、ハンドスタンドなんかが技の中心だった。スピンは回転数、ロックウォークはバランスと正確さ、ハンドスタンドなどはブイシット(V字に身体を曲げ、両手で支える・・体操でいう脚前挙だな)から倒立まで持って行くなんていうのがかっこいいとされていた。池袋西武のパーキング連絡広場でも大会があったり、湘南の海辺(この大会の時にはじめて生アキヤマを目撃)、いろいろなところで大会があったのだ。ハイジャンプなんていう種目もあった。走り高跳びだね。ボードから飛び上がって高跳びのバーを飛び越え、板に上に戻る・・オーリーなんてなかったのだ(笑い)。

で、カリフォルニアパークでも大会が開かれた。フリースタイル、ハーフパイプ、ランプだったかなあ。あとはワンメイクのエアー大会。オレは70cm飛んで優勝した。この大会では松島ががんばっていたが無冠に終わった。彼の活躍はこの時の悔しさから始まったのであろうか?後のスケートブーム、スノーボードブームで再会を果たしたが。この大会のあとでアキさんが声をかけてくれて、The Surfのオリジナルボードをゲットした。当時としてはうんと幅広のファットボード。気に入ってたなあ。藤田正がかっこよかった。あとはミッチェル。彼もかっこよかったなあ。SIMS&Gullwingの組み合わせだった。まだウィルにはコニカルはついていなかった。後にダブルコニカル(ウィルのショルダー部が斜めに削られ、コーピングへのヒット、抜けをよくするタイプ)が主流となった。ハンドプラント、レイバック、レイエアーなどがはやりはじめた。

篠くん登場。努力の人・・・。

コンペが開催された頃、篠くんがパークに現れるようになった。よく一緒に過ごしたが低い重心で、黙々と練習するタイプ。最初はなかなかうまくならなかったけど、その後どんどん頭角を現し、プロへの道を進んだ。たしか、ボクが大学生の頃にパークで再会した時には、ものすごくうまくなっていた。彼は人間的にも、技術的にも素晴らしいものを持っていた。既にボクはリタイアしてました〜(バンド三昧)。次のブームが来るまでスケートに乗ることもなかった。社会人になって、ウインドサーフィン、スキーからスノーボードとスケートから離れた生活に・・・。

   

 ココが原点かなあ・・アキさん、カズ君、藤田くん、松島くん、篠くんアリガト!   ここからいったん戻る

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