歌舞伎町通いの高校時代

代々木で滑っている仲間のSさんが「今度新宿にボウルができるんだけど、おまえ来る?」なんて誘われた。代々木はフラットでスラロームがメインになっていたが、「ボウル」お〜、これが目指していたものだあ!といってみた。歌舞伎町、コマ劇場の向かい側にビルがあって、その2階までカガミ張りのエスカレーターをのぼって、あ〜、たしか蝋人形館があったビル。ゲームセンターだあ(当時はゲーセンと略すことはしなかった)。その真ん中にボウルがあった。インドアでいつでもできる。ショップがあって、スロットマシンがあって(やれなかった)、すぐに気に入った。そのうち、チームを作ろう!ってなって「Yellow Banks」なるチームに入れてもらった。ボードが安くてに入る様になった。今思えば「黄色い銀行」??ま、それはそれで、いいか。ここのボウルはワンメイク対応、コースターをするにもバート面へはいるところの段差が凄くて、斜めに入ってセンターでやっと「ワンウィール!!(バックサイドのカットバックでウィール一個残すの、そのまんまじゃ)」雑誌JJに紹介された。こんな感じだった


太東、瀬田、渋谷東急相次いでオープン。

太東はSkate Park legend ofJapan!瀬田はBigbowl&Ramp,そして渋谷はHomegroundとなった。
Yellow Bankは小さなBowlだったが、スケートのブームは地方で大きな展開を見せていた。日本初のParkであった太東は、アスファルトのフラットとコンクリートのRに囲まれたライン、ランプ(当時はフラットがないものがランページと呼ばれていた。いささかでこぼこしていた)をもった当時としては素晴らしい、今は伝説のパークだった。電車で行く途中、踏切を渡るのだが、単線ののどかな雰囲気の先にあるだろう「素晴らしいもの」への思いで、興奮気味だった。フラットはそれほどの勾配ではなく、代々木で慣れていた僕には楽なものだったが、Rに囲まれたコースはフラットのアスファルトのでこぼこから急にスムージーな、そして切り立ったRについて行けず、リップをヒットするのは最後の数回にとどまるようなものだった。ランプは当時の僕には最高にでかく、とてもリップまで到達出来るものではなかった。興奮し、帰り道の踏切で線路に挟まってBennet vectorのキングピンが折れた。Stormyでクロモリ鋼のビス(六角)に換えてもらった。


渋谷東急はビーチボーイズばっかり。
主に新宿歌舞伎町で滑っていた時、「渋谷のプラネタリウムの所にでっけえランプとハーフパイプができるんだってよ」という言葉を聞いた。これは大きな出来事だった。いってみたが、大音量でビーチボーイズがかかってたっけ・・・続きへ

<戻る    次へ>